寺田屋(てらだや)とは
「維新は寺田屋の一室より生まれたり」とも言われるように、寺田屋は幕末期に起きた2つの事件の舞台となっている。
伏見城が取り壊された後、伏見は城下町として大阪(大坂)と京都を結ぶ交通の要衝として栄えた。もともと寺田屋は江戸時代初期からの「船宿」で、川の航行権を持ち、船問屋などと連携して旅人と船の移動に関わってきた。寺田屋は旅館も兼ねており、薩摩藩の指定宿でもあった。
鳥羽・伏見の戦いで焼失し、現在の建物は明治時代に再建されたものだが、現役の宿として宿泊することも可能。
寺田屋騒動
文久2(1862)年、薩摩藩の尊王攘夷派と公武合体派が寺田屋で乱闘となり、多数の犠牲者が出た。
当時の薩摩藩には、藩主の父・島津久光を中心とした公武合体を奉ずる温和派と、勤王討幕を主張する急進派との2派があり、久光は急進派の動きを押さえようと兵を率いて京都へ入洛せんとした。これを知った有馬新七ら急進派は、関白・九条尚忠らを殺害すべく薩摩藩の船宿であった寺田屋へ集結した。
この情報を知った久光は藩士を派遣し、新七らの計画を断念させようと説得したが失敗、乱闘に発展した。新七ら7人が斬られ、9人の犠牲者が出た。
この騒動がきっかけとなり薩摩藩は団結。藩全体が一丸となって明治維新へと向かうこととなる。
坂本龍馬襲撃事件
慶応2(1866)年1月、寺田屋で風呂に入っていた龍馬の愛人で後に妻となるお
概要
拝観料:大人400円
拝観時間:10時〜16時(受付終了15時40分)
※月曜不定休
※1/1〜1/3 定休
アクセス
京阪電車「中書島駅」から徒歩約5分
近鉄京都線「桃山御陵前駅」から徒歩約10分
駐車場:あり(2台)