「国家安康 君臣豊楽」に家康が激怒、豊臣家と運命をともにしたお寺
方広寺とは
豊国神社の北側に建つ方広寺は、豊臣秀吉が天正14(1586)年に母の菩提寺として創建。
当時は高さ19メートルの木造大仏を安置する巨大な大仏殿(正面82メートル、奥行き57メートル、高さ50メートル)を中心に伽藍が並び、壮大な規模を誇る大寺院だったと言われ、大仏殿に安置された大仏は奈良・東大寺の大仏よりも大きかったとされる。
文禄4(1595)年に完成、各宗派より千人の僧を集め「大仏千僧供養」を行った。
秀吉が造った大仏は慶長元(1596)年の地震で破壊。破壊した大仏に対し秀吉は「うぬは、京の町を守るを忘れ、まっ先に倒れるとは、慌て者が!」と弓矢を撃ったと言われている。
その後、信州善光寺の如来像を安置するも真夏に雪が降り、「如来の祟り」と言われ如来像は返還された。
秀吉の死後、秀頼が再建した金銅製の大仏も鋳造中の火災により焼失。三たび、大仏の復興を志し、大仏殿や梵鐘を完成させるも、ここであの有名な事件が起こった。
方広寺鐘銘事件
秀頼が造った梵鐘の「国家安康 君臣豊楽」の文字に徳川家康が激怒。
理由は、「家康の文字を二つに分けて首と胴を切り離して国を安らかにし、豊臣が君として楽しくという徳川家を呪う文言だ」と解釈したため。
しかし、これはすべて家康とそのブレーンである金地院崇伝の画策であったとされる。
家康は大仏開眼供養を延期させた。さらに、慶長19(1614)年に大坂城を攻め、冬の陣・夏の陣を経て豊臣家は滅亡することとなる。
幾度となく大仏は再建されたが、地震や火災により倒壊・焼失を繰り返した。天保14(1843)年に再建された最後の大仏も、昭和48(1973)年に焼失した。

京都国立博物館前にある「大仏前交番」
概要
拝観料:境内自由(本堂拝観料 200円)
拝観時間:境内自由(本堂 9時〜16時)
アクセス
京阪電車「七条駅」より徒歩約10分
「博物館三十三間堂前」バス停より徒歩約3分
駐車場:あり